2009-7-30 23:22
僕は、合理的にものを考えることがあまり好きでなくなったことに、最近気付きました。
昔は大好きだったのよ、合理化が。
論理的な思考だとか、科学的な見方だとか、そんなのばっか考えてた。
それがいいと思ってた。
それも間違いじゃなかったかもしれませんけどね。
でもなんか、なんとなく…、ホントになんとなく世の中の理論ってやつがわかってきた時に、
つまんねーなー
って、思ったんです。
いやさ、論理的思考はわかるよ。正しいよ。
でも正しいから何?
正しいことが正解なら、今の世の中不正解だらけじゃない??
そして不正解だからこそ、こうしてちゃんと廻ってんじゃない?
そのほうが、きっと愉しいよ。
科学は人間の都合だけで生み出された考えだ、みたいなことを母に言われてすごく納得しました。
あつーいよ。
暑いのに、読んでくれてありがとうございます。
クーラー効いてます??
2009-7-27 00:14
どーも、お久しぶりです。けーたです。
テスト勉強からひたすら逃げて、ここにたどり着きました。
あ、ちなみに苗字はもりとーといいます。もりとーですよ、もりとー。
ちなみにちなみに、私のもりとーは、そんじょそこらの森藤さんとは訳が違います。あ、いや別に森藤さん批判とかではないです。
…本題に入りましょうか…。
誰かを嫌いになってしまうのは、悲しいことかなって、最近思うんですよね。もったいないことかもしれません。
前から思ってたことなんですけどね、最近なんだか実感がわきました。
まず、苦手な人と嫌いな人は全然意味が違うって思ったんです。ここポイントです。
苦手な人がいるのは当たり前なことですよ。苦手な人がいない人の方が、圧倒的に少数でしょうね。
ただね、苦手だからって、悪い奴だからって、なにもわざわざ嫌いになることはないんじゃないかと、思ったんですよ。
なんでかってさ、だって、人を嫌いになったっていいことないじゃないですか。うん。
嫌うということは、それ以上関わろうとも、知ろうとも、見ようともしないってこと。その人といることがもはや苦痛になってしまうことですよ。
でもね、たとえ苦手だって、悪さをしてたって、そういう人と関わることでしか学べないことって、ある気がしません??
自分って、こういうタイプはダメなんだなぁとか、
こういう振る舞いを自分もしていないだろうかとか、
そういう人もいるんだなぁとか、
主に自分を知る上では、彼らみたいな人はとても大切だと思います。
少なくともただ嫌うよりは、よっぽど自分にとって有意義ではないかと、僕は思ったんです。
という訳で「嫌いな人撲滅運動」を、勝手に実施中です。よかったら、一緒に撲滅しません?
…そういえば、今までこの日記の中で仲間を募ってコメントが来たことが1度もないんですよね。うん、仲間は諦めます…。
読んでくれただけでも、ありがたいことです。
暑さに負けないようにしましょうね。僕は負けましたが。
2009-7-21 02:07
今日は、昔話をしようと思います。
もちろん私の昔話。もう10年以上も前の話です。
私の家は、私が小学校に行くのと同じ時期に、1匹の犬を飼い始めました。名前をコロといいます。よくある名前です。
彼はまだ元気に生きています。よく考えたら今年でもう15歳になるんですね。すげぇ。
それはさておき、コロという生き物は不思議な生き物でして、こいつはホントに犬なのかというくらい鈍感なんです。
寝てる時は叩いても起きないし、
名前を呼んでも振り向かないし、
野良ネコが近づいているのに全く気がつかないし、
今となっては歳のせいと言えるのですが、若いときから、ずっとそんなでした。
でも、そんなコロにも、やはりこいつは犬だ!と思わせる一面がありました(あまりにも哀しい言い回しですね)。それは、家族が家に帰ってくる気配を察することができるというものです。
コロはたいてい、家の玄関にリードをひっかけていたので、玄関の前で家族の帰りを待っているんです。
私が小学校から帰っていると、自分の家が見えてくる。家の玄関は、家が見えるのとほぼ同時に見えるので、必然的にコロも見えるのです。
そして驚くべきことに、私がコロを見つける時、確実にコロは既に私を見つけているのです。だいたい60b以上離れているのに、犬の視力は0.1くらいなのに、コロはいつも私を一点に見つめているのです。
ちなみにこれは10年以上過ぎた今でも変わっていません。コロはずっと変わらずに遠くから僕の姿を「見て」いるんです。
私はそんなコロの力に驚いたり、呆れたりしながら、それでも凄いんだってことは理解していました。
そしてある時、いつものように家が見えてきて、いつものようにコロが私を見ていました。その時、私はふと足を止めて、そのままコロがギリギリ見えなくなるまで、後ずさりをしました。そして思ったんです。
「僕にコロのことが見えない時、コロに僕のことは見えない」と。
そりゃそーだ。と思うかもしれませんね。
でもそのことが、当時の自分にはとても面白く、いつまでもコロが見えるスレスレのところで行ったりきたりを繰り返して遊んでいました。
…これ、実際は違うんですよね。
例え自分にはコロが見えなくても、コロにはきっと僕の肩や頭が見えていたんだなって、気付いた時にはもう小学校3年生でした。
そこから、いろんな物の見方が変わったのを覚えています。
はい、これだけ。おしまいです。
自分でも何が言いたいのか、よくわかんないんですけど…。
何となく、心に留めておきたいことであることは確かな記憶です。
読んでくれて、ありがとね。
2009-7-17 23:56
人に望むことが、実は自分ではできないって、意外に多いですよね。
最近はそんなことで、反省しっぱなしです。
でも、人の前に立ってモノを言うのって、そういうことだと思います。
人の前に立ったら、自分が出来ようが出来まいが、そんなことは関係なしに、言わなければならないことは、言わなければならないのです。
もちろん、1番は自分もできるのがいいんでしょうけど、必ずしもできる必要はないと、僕は思います。
本当に大切なのは信頼です。
自分が例え出来ないことでも、相手が私を信じてくれていれば、どんなことでも言えるし、聞いてくれるんですよ。
言葉にすれば、それだけのことです。
それがどれだけ難しいか、きっとまだちゃんとわかっていない自分は幸せ者でしょうか。
そーでもねーぞ。
最近の日記つまらないですね。すみません。読んでくれて、ありがたいです。
2009-7-16 16:23
うん、確かに、メガシャキは効いたよ。
でもね、同時に気付いたんですけど、
眠気と集中力って、必ずしも反比例しないものなのですね…。
どうしてみんな、そんなに自分に厳しくなれるんだろう。
凄いよ、自分に厳しくなれるってさ。
見習わなくちゃいけないんでしょうけどね、どこかで見習いたくない自分もいるんだよなぁ…。
きっと、なんだかんだで何とかなっちゃってる自分は嫌いじゃないんだろうね。
自分、こんなんでいいの??
どうやら、自分で自分を知るには限界があるみたいです。そりゃそうだよな。
読んでくれて、どーもです。
また書きます。