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密かにディズニーランドのチケットを買いました。

考えは考え続ける中で心の中で固まり今の自分の地盤になる。

だから昔の自分の手帳やらこういうブログやらを見返すと、今の自分にとって当たり前なことをさも難しそうに説明する自分と出会って笑う。

加齢とはそういうものだ。そうやって成長もするし、頑固にもなる。きっとそういうものだ。

きっとこの文章も10年後の自分が読んだら、わざわざ言葉にするほどのことでもない、当たり前のことなんだろうな。

てかそうなってなきゃ嫌だ。

そこんとこよろしく、未来の私。


愛したい。と、最近思うようになって。
あぁ、この感情は恋とは違うなぁと分かって。
それはつまり、僕が大人になっている証拠なのだと思った。

愛も恋も、個人個人で定義のちがうものだろうけど、僕の中で恋は緊張と興奮の稲妻のようなもので、愛は深い海の水面から落とされた小さな貝殻じゃないかなと。
なんか詩的ね。

ここで反対意見として、そもそも大人になったら愛だの恋だの言わねーよ、なんて言われちゃうんだろうな。うん、そういう人いるだろうな、とか思う。

でもね、これは僕の妄想だけど、大人になって、歳をとればとるほど、愛はもっと深く深く沈むものだと思って。沈んで見えなくなっても、それは無くなった訳ではないと思うんだ。沈黙の愛は、僕の理想かもしれない。

そうはいいつつも、出来ればゆっくり沈みたい。流されながら、揺らぎながら、そう、貝殻みたいにね。

そしていつか、星の砂みたいに粉々になればいい。その愛の残骸を、人は美しいと思うんだ。

当事者意識について


思いやりや気配りという言葉は、特に日本の社会の中ではとてももてはやされていると思う。実際、優しさを上手く表せなかったり、気を利かせられない人たちは、一般にあまり周囲とうまく馴染めないし、信頼してもらえない。これは社会では、生きにくいことを表しているように思うのです。

どうしてそんなことが起こるのかなって、考えていました。だって、やった方がいいことが目の前にあるのに、どうしてそれを見逃してしまうのか。

何かに慌ててるのかな?
環境に慣れていないのかな?

たぶんそれだけじゃない。
僕はそれを、当事者意識が低いからではないか、と思った。

当事者意識とは、他人に起きた物事を、自分のことのように考えられること。…辞書を引いたわけじゃないけど、僕はそういう風に解釈してる。つまり、相手が辛いかどうか分からないから、思いやりようがない。相手が助けて欲しいかどうか分からないから、気の配りようがないんじゃないのか。

そして当事者意識は、本当に意識し続けないと、簡単に忘れてしまうものだとも思う。だって、僕は僕1人の意識を持つので割と精一杯だから、他人の事を考えるのは二の次にせざるを得ないじゃないですか。まぁ、愛情とかがあれば別かもしれないけれど、とりあえず今はそういうのは置いておいて…。


当事者意識は持つのが大変で、でもとても大切なことだと僕は思っている訳なんだけど、でも僕がそう思えるのって、他人のことを強制的に考えなければならない位置に今、いるからなんですよね。だから2年前の僕からしたら今の考えは理解できないものかも知れないし、逆に7年前の僕は今の僕と同じことを考えていたかも知れない。環境は思考を変えると思う。

ちょっと話がずれましたすみません。

今日ここに書いたことを理解してくれる人がいたならば、その方はきっと、優しさの素養がある人だと思います。正直、僕は当事者意識があれば、思いやりも、気づかいもいらないと思っています。それは、当事者意識を持つことだけは、自分のためだけに出来ることではないからです。優しさって、甘やかすこととは違うじゃないですか。思いやりや気づかいは、自分がそう思っているだけで、ともすれば自分自身のための行動であったり、その結果相手を甘やかす行為にもなりうると思っています。だから、そのベースに、当事者意識が欲しい。逆に優しさの素養の基、当事者意識さえあれば、その人が他人にとる行動は、形はどうであれ、結果として思いやりや気づかいが感じられるものになるのではないでしょうか。

もちろん当事者意識が自分の都合のいいようにねじ曲がってしまう危険もあります。それを踏まえた上で、なるべくそうならないように、優しさをもって、自分以外の誰かのことを真剣に誠実に考えなくちゃいけないなって、思ってます。

最後に、長くてごめんね。
読んでくれてありがとうございます。

めんどくさがり


一歩踏み出せば、案外世の中はキラキラしていて、自分にできること、自分が今できていることに気づかされる。

社会人も慣れると悪いことばかりじゃない。結構好き勝手やってるしね。

誰も無能なんかではなく、新しいことを始めるチャンスも、きっかけも、思ったよりはあるように思う。

要は実際に動くかどうかだ。

考えてどうにかなることもあるけれど、結果を出すには、何にせよ動いてみるしかない。

それがどうであれ。後悔であれ。

マイナスにはならないんじゃない?


ただ一つ。


面倒であることを除いて。

先手を取られた


どんなに昔の自分が、たとえどんな栄光を得る可能性に満ち溢れていたとしても、なんだかんだ言っても今が1番大切なのだから、昔の自分と今の自分、どちらが幸せな方がいいかと聞かれたら、それは普通は今の自分を選択するだろう。

それでも人は、昔の後悔を引きずるし、自分の選択を軽視したがる。

昔の自分の栄光にすがりたがるのは、今の生き方を受け入れなれない人がすることだ。

そんなことを思うのは、僕が先手を取られたからだ。

好きも嫌いも紙一重。正解なんてないけれど、僕らは今を生き続けなきゃならない。
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