当事者意識について


思いやりや気配りという言葉は、特に日本の社会の中ではとてももてはやされていると思う。実際、優しさを上手く表せなかったり、気を利かせられない人たちは、一般にあまり周囲とうまく馴染めないし、信頼してもらえない。これは社会では、生きにくいことを表しているように思うのです。

どうしてそんなことが起こるのかなって、考えていました。だって、やった方がいいことが目の前にあるのに、どうしてそれを見逃してしまうのか。

何かに慌ててるのかな?
環境に慣れていないのかな?

たぶんそれだけじゃない。
僕はそれを、当事者意識が低いからではないか、と思った。

当事者意識とは、他人に起きた物事を、自分のことのように考えられること。…辞書を引いたわけじゃないけど、僕はそういう風に解釈してる。つまり、相手が辛いかどうか分からないから、思いやりようがない。相手が助けて欲しいかどうか分からないから、気の配りようがないんじゃないのか。

そして当事者意識は、本当に意識し続けないと、簡単に忘れてしまうものだとも思う。だって、僕は僕1人の意識を持つので割と精一杯だから、他人の事を考えるのは二の次にせざるを得ないじゃないですか。まぁ、愛情とかがあれば別かもしれないけれど、とりあえず今はそういうのは置いておいて…。


当事者意識は持つのが大変で、でもとても大切なことだと僕は思っている訳なんだけど、でも僕がそう思えるのって、他人のことを強制的に考えなければならない位置に今、いるからなんですよね。だから2年前の僕からしたら今の考えは理解できないものかも知れないし、逆に7年前の僕は今の僕と同じことを考えていたかも知れない。環境は思考を変えると思う。

ちょっと話がずれましたすみません。

今日ここに書いたことを理解してくれる人がいたならば、その方はきっと、優しさの素養がある人だと思います。正直、僕は当事者意識があれば、思いやりも、気づかいもいらないと思っています。それは、当事者意識を持つことだけは、自分のためだけに出来ることではないからです。優しさって、甘やかすこととは違うじゃないですか。思いやりや気づかいは、自分がそう思っているだけで、ともすれば自分自身のための行動であったり、その結果相手を甘やかす行為にもなりうると思っています。だから、そのベースに、当事者意識が欲しい。逆に優しさの素養の基、当事者意識さえあれば、その人が他人にとる行動は、形はどうであれ、結果として思いやりや気づかいが感じられるものになるのではないでしょうか。

もちろん当事者意識が自分の都合のいいようにねじ曲がってしまう危険もあります。それを踏まえた上で、なるべくそうならないように、優しさをもって、自分以外の誰かのことを真剣に誠実に考えなくちゃいけないなって、思ってます。

最後に、長くてごめんね。
読んでくれてありがとうございます。