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分かっちゃうって、なんかどこか切ない。

分からないものの魅力とか、
知ろうとする好奇心とか、
そういうものが失われてしまうから。

でも、どうして切ないの? 
魅力がないって、なにがないの?
好奇心って、ホントに必要? 


ぶっ飛んだこと言いますけど、


そこに芸術があるんですよね。 


分からなくてもいい。
説明できなくてもいい。


分からないから、
説明できないから、
それは芸術なんだよ。


ってことは、
日常の中に、芸術はあふれている。

いや、
自分の中にだって、言葉で言い表せない想いが、
芸術があふれているよ。


技術と芸術って、離れているように感じるし、技術をやっている時に芸術を感じる余裕はなかなかないけど、本当は、すごく近いんだ。そう思うと、ちょっと嬉しくなる。ねぇ、嬉しくない?
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他人の気持ちになれば、自然と分かること。


何が愛だ。

何が恋だ。

自分のことも考えられない、
自分の行動に責任も取れない、
自分自身と向き合えていない、
そんな人がしていいとでも思ってんですか。

それは逃げでしかない。
甘えでしかない。



そんな訳ないじゃないか。

アクセス数が


僕がmixiなんかにこのブログの存在を書いてしまったばっかりに、みなさんに意味不明な文章たちを読ませてしまった。ごめんね。

間違ってもブックマークなんてしないで下さいね。



僕は今、少々の工具と衣服を持って福島に帰ってきていて、あわよくば後輩やらの楽器をちょいといじってやろうとか企んでいるんですけど。

なんか、

もしかしたら、



いや、やっぱいいや。

手を合わせるということ


ここ最近は、悲しいことが続いています。

これがいわゆる「波」なのだろうけど、
いつか必ず、いい波が来るんだろうけど、

悲しみを、自分で肯定することは難しいです。 


手を合わせる

感謝をしたり、拝んだり、祈ったりするときの行動です。


最近手を合わせて気づいたことがひとつ。


生きているものに対して、私たちはあんまり手を合わせない。


私たちが手を合わせるのは、相手が動かなくなった時だ。 


そして不思議なことに、手を合わせてはじめて、それがもう動かないのだと知ることもある。


そうか、手を合わせるのは、相手のためでも、お坊さんのためでもなくて、自分のためにするんだなって、そのとき思い知らされたよ。


そうして僕は、まだまだ生きられます。

梅干しと干し梅のつづき


ずっと気になってたでしょ?

干し梅と梅干しの運命。


え?なんの話か分からないって??

多分、2・3年前のアーカイブを探せばどこかにある、干し梅と梅干しのお話。


続きます、と書いてからもう、こんなにも時間がたってしまった。

待ってた方、待たせてごめんね。

…まぁ、いる訳ないですが。


ってな訳で、本編は追記に!
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