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恋愛


我が家は、こと恋愛に関して、非常にネガティブな家庭でございます。

家族が仲良しだから、外部からの侵入をあまり良しとしない傾向にあるとも言えるのだけれど、多分、それだけじゃない。

なんだか家族全体に、恋愛=恥ずかしい、みたいな空気が流れています。

いや、分かるよ?これは決して一般論から逸脱している訳ではないのですよ。どこのご家庭でも、それなりにあるものですよ。

ただうちは…度を超えてる、と想う。そのことになんだか最近、異様にむしゃくしゃしているのでございます。



人が人を好きになることは、とても自然なことです。

誰かが誰かを想うことは、誰にも止められません。

それ以上に、

人と人が互いを知り合うことは、いいことです。

人と人が互いを想い合うことは、素敵なことです。

人と人がもし愛し合えたなら、それは素晴らしいことです。


どうしてそれを恥ずかしめられようか。いや、それは誰にもできない。(古文和訳風)

ただし、気をつける必要はあるよ。



んで、
ここから本題。


なぜ、気をつけなければならないのか。
何を、気をつけなければならないのか。


なぜ、に関しては簡単ですね。
恋愛の失敗は、心的ダメージが大きいですから。ダメージをおうリスクをなるべく避けるために、気をつけて相手を見る必要があるし、自分の恋愛の仕方も客観視できなければなりませんね。ま、分かっちゃいるけど難しいですよね。痛み無くして、いい恋愛も出来ない訳ですし。


んで、何を気をつけなければに関しては、…これは、もう持論なのですが。
自信を持つこと。自分に今自信があるかどうかに、気をつけないといけないと思うのです。


なぜなら、自分自身の心が揺らいでいる時に恋愛をしたら、恋愛そのものが揺らいでしまうから。
心が揺らがないようにするには、揺らがない、という自信が必要になります。
それは、その人自身の強さでもあります。何かを想い続けるには、それなりのパワーが必要ですから。

ただし、この自信が必要な時期は、割と恋愛の初期段階だと思われます。
なぜなら、相手と愛し合えたのなら、自分に自信が無い時、気持ちが揺らぎそうになった時、その相手がいることが、大きな支えになるからです。

じゃあもし、自分に自信がないまま恋愛をしてしまったらどうなるか。
僕が思うにその恋愛は、自分へのエゴではないでしょうか。
自分は自分に自信が無いけど誰かに愛されることでそんな自分の気持ちを支えたい。でもそれは、相手よりも、愛されることが重要なのであって、愛だけを求めることは、自分自身を愛せていないことと同義なのではないでしょうか。

つまり自信とは、自己愛のことであるとも言えるでしょう。自分を愛せない人間が誰かを愛そうとしても、結果愛したかったのは自分であって、それでは恋愛の醍醐味である「愛し合う」という行為に問題が生じてしまいます。

ここで理解しておいてほしいのは、自己愛とエゴイズムは、全く違う意味であるということです。分かりやすく同じ言葉に置き換えると、自己愛と利己主義、またはナルシシズムとエゴイズムとなります。余計こんがらがったらごめんなさい。

もしあなたが恋愛をしていたら、一度考えてみてください。あなたは自分のことが好きですか?
もし自分のことが嫌いだったら、そんな自分に自信が持てるはずないですよね。じゃあ自分がしている恋愛は誰のための恋愛か、もう少し考えてみましょう。

でも別の発想もあります。
あなたが誰かのことが好きなら、それが相手のことを想っていると強く思えるのなら、それはもしかしたら、自分に自信がある証拠かもしれません。
どれだけ自分に自信がないと思っていても、それでも愛したいと思う気持ちが、あなたを変えたのかもしれません。
恋愛している人って、なんだか素敵にみえるけど、その理由は、ここらへんにあるんじゃないでしょうか。
あなたも、そうなれたらいいですね。



なーんて、途中から社会心理学のレポートだか人生相談みたいになってましたけど、ホントに恋愛はまるで学問みたいですよ。キリが無い。


キリのいいところで終わりたかったけど、キリがないから考えられるんですよね。
読んでくれて、ありがとう。
ちょっと前から登場した「あなた」は、もちろん、僕のことです。

何も言えなかった。


僕にとって音楽とは、大切なものでも、好きなものでもなく、必要なものなんだと思う。

だって人は、好きなものも嫌いなものもどんどん変わっていくし、それが当たり前だから。
僕は音楽をその領域には混ぜられない。

必要なものを他にあげるとすれば、そうだな、

衣食住、とか?
うん、そんなものか。

つまり僕は、
衣食住音ってことになるね。なんて読むんだろうね。


大学に入った時は、福祉に興味があって、勉強したくて。
だけど知っていくうちに、なんか違う。考えが甘いだけだって気持ちもあったけど、その時の僕には、福祉を受け入れきれなかった。

だけど、音楽は違った。音楽は、どれだけ知ってもどこから見ても楽しくて、嫌いになるなんて、飽きるなんて、考えられなかった。
だから今の道に進めた。確信があったのだと思います。

そしてそれはやっぱり、もう僕の体が、音楽なしじゃ駄目になってたからだと思うのです。

そう思えたときは、なんだか嬉しくなったことを、今でも覚えています。

自分の生き方も、大切だと思ってきたあの人も、結局見失って、変わっていってしまう自分に、僕はどこかで怯えていて、あぁ、きっと僕の中には確固たる想いなんてものは何も無く、自分というものを見つけることができないまま人生を流されていくのだろうと思っていたから。


ただ、気づくのにはちょっと遅かったかな。そう思えたのは、21歳の頃でしたから。

ないよりはマシだとは思うのですが、ホントのホントは、1つじゃ足りない。

いや、1つでもいいのかも。むしろ、1つを今も追い求めているのかも。

それさえあれば、音楽なんてなくていいと思える何か。


…ハードルは随分高いですね。なんせ21年ものですから。


そんなこと分けて考えればいいのにね。一度に2つのことを考えられないのは、僕の悪いところです。

じゃあ、音楽が恋人とか言っちゃえるのかな。
僕、音楽と結婚します!みたいな?
いやいや、それはなんか違うぞ自分。
んじゃあ、好きな人できたらどーすんのよ。
音楽と私、どっちが大事なの??的なこと聞かれたら、どーすんのよ。

…そういや聞かれたことあったな。

なんて答えたかは、…探してください。

ああ、もう少し考えてから発言しましょうと、自分に怒られました。はい、ごめん。


書いていくうちに新たな課題が生まれてしまった。中途半端なまま公開するのは嫌だけど、消すのはもったいないので、そのままいきます。
読んでくれて、どうもありがとう。またね。
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