アーの話 マエ
全然意味がなかった。
セリが死んで、初めてわかった。生きてることって、全然、全く、何にも意味がなかった。セリがいて、ただセリと過ごしていた楽しい時間が、無意味さを忘れさせてくれてたんだ。
だから、わたしも死ぬ。消える。セリのとこに行く。単純明快。どうでしょう?
鈴子(すずこ)先輩は黙っていた。黙ってわたしを見つめていた。見つめ続けていた。
「そういうことなんで、邪魔しないでもらえますか?」
「……でも、」
そうとだけ言って、あとに続く言葉はない。なんにもない。沈黙しかない。そういうヒトなんだ、鈴子先輩は。
小学校のころから変わらない。このスタイルを崩さない。いつまでもあか抜けない。みんなの輪に入らないで、ちょっと離れて見てるだけ。詩春(しはる)先輩とか、うちのアネキ――つまりセリ――みたいに明るくて優しい友達が周りにいたから生きてこられた。そういうタイプの人間。
セリが連れてくるヒトは大概いいヒトだった――そりゃもちろんセリの友達だから当たり前――けど、この鈴子先輩だけは、どうしてもイヤだった。いつも何か遠慮がちで、キョロキョロしていて、あと、そう、詩春先輩にベッタリ。すがって生きてる感じ。自分で生きてる感じがないヒトなんだ。
「ぶっちゃけウザいんすけど。わかってます?」
「え、だけど、高郷(たかさと)さん……」
ほらこれだ。そーらこれだ。やっぱりだ。鈴子先輩は私のこともセリのことも名字で呼ぶ。セリがいる頃は「高郷さん……妹さんのほうの」とかこんな感じだったっけ? この感じ、ムカつく。
フェンスに背を向け鈴子先輩と正面から対峙してみる。鈴子先輩の目を見てみる。焦点が定まらない彼女の眼を睨んでみる。中学卒業してからずいぶん経つ。久々の再開が夜に近い夕暮れ時、自殺の名所の滝だなんて。しかも、これから死のうとする後輩と止める先輩なんて。ドラマティック。なんていう偶然。
「なんで止めるんですか? わたしが死んだって、何にも変わらない。意味なんてないんだから」
「止めようなんて、……してないよ」
え?
震えた声。幽かな声。精一杯なのに小さな声。だけど衝撃は大きかった。
「――じゃ、なんで」
「あたしもだよ」
「は?」
鈴子先輩はゆっくり歩いてきた。フラフラしていた。倒れそうだった。
「あたしも、死のうと思ったんだよ」
混乱する。目が回る。なんか笑える。事実、噴き出した。まさにこれ電撃告白。鈴子先輩も少し笑っていた。
「じゃあ、一緒に飛びますか?」
無論冗談だ。ありえないことだ。鈴子先輩と心中なんてまっぴらだ。
よくわからないヒト。変わったヒト。でもいいヒト。そんなふうにセリが話してたのを思い出す。三つ目のヒトとしてはまだ理解できないけれど。
鈴子先輩まで自殺、か。理由は聞かない。尋ねるマでもない。きっとわたしと似たようなもんだ。新聞にも載ったくらい有名な事件で、鈴子先輩はカレシを通り魔かなんかに殺されてる。しかもそのときカレシと一緒にいたのが親友℃刻t先輩だったってこともあって、ただでさえ気の毒なのにウワキがなんたらとかのギワクまで出てきて、もうなんかアレだった。だから、可哀想なヒトという認識はある。
逆に、そうだ。だから、話してるんだ。鈴子先輩にだからこんな話をしてしまえたんだ。他のヒトだったら適当にごまかして、あんなわたしの人生観なんて墓の中――じゃなくて滝の底まで持ってくつもりだった。
――わたしも、あんまりヒトと関わるのが得意じゃなかった。むしろ下手だった。てんでダメだった。セリがいてくれたから、セリを通じて話せただけ。だから、今も年上の友達のほうが多い。セリがいなくなってみると、あまりにも人生が無味乾燥で、イヤんなった。
だから、そうだ。同属嫌悪なんだ。だから鈴子先輩、イヤだったんだ。
「でもね。あたし、やっぱりここで死なない」
いきなり口を開く鈴子先輩。
「意味ないことなんて、ないよ。今、あなたに会えてそう思ったんだ」
セリの話
散骨って、別に問題ないんだって。
私がそう言うと、妹――アーちゃんは泣きだした。いつものように強がったまま、声も出さずに涙だけ流し出した。
あの滝にいられるのなら、どんな形でも私はそれでよかった。
――あんなところで歌えるなんてどうかしてる。
そう言いながら、アーちゃんはいつだって私の後ろをついてきて、私の歌を聴いていた。滝の下で眠るたくさんの人たちと一緒に。
「高郷さん」
「え?」
多くの人が最後に目にするのが、病室の白い天井。よくよく考えるとかなり妙なことだと思った。
会う人会う人が必死に明るい顔を作って私を励まそうとする――それは、却って不愉快だった――中、鈴子だけはやっぱりいつものようにおどおどと、またはキョロキョロとしながら、それでも毎日私のところにやってきた。必ずアーちゃんと入れ違いに。
「生きてることって、意味あったのかな?」
鈴子の突然の問いかけに、なんと答えればいいのかわからなかった。彼女が私に何と言ってほしいのか見当もつかなかった。
「意味がなければ、いいのにね」
「……」
私は何も言えずに横たわったまま、鈴子の目をじっと見つめた。
……わかってはいた。あの通り魔事件の日、鈴子に何があったのか。一人の人が持つ意味の重さを、鈴子がわかっていないはずがない。その苦しさから逃れる術を彼女がこの五年間探し続けていたことだって、私は知っていた。
「滝の下の人たちにも、生きてた頃があったんだよね。あの人たちも『生きた』人たちだった」
鈴子が言った。
ああ。そうだ。呼吸すらも疲れてしまうのに、私は鈴子に滝のことを語ってたんだ。
生まれたときから、二十年は生きられないと言われていた私。だから、変な話、ずっと死んだ人たちのことが身近に感じられていた。
滝の下で眠る人たちに、自分で自分の意味を捨ててしまった人たちに。彼らに、生きたことは無意味じゃなかった。それを彼らになんとかして伝えたくて、私は細い腕でギターを抱えた。彼らに何か一つでも届けばいい。そう思って、私は私を歌った。
私の夢を叶えてくれるのは彼ら、彼女たちしかいない。滝の下の人たちが自分の意味を見失って自分を捨てた(つもりでいる)のなら、私が徹底的に意味を与える。
たとえそれが私の自己満足に過ぎなくても、じっと彼らは私の歌を聴いてくれた。「高郷セリ」に意味があると教える、その意味を持っていたのは彼ら――。
「死なないで」
鈴子の声。声。ハッとして彼女を見れば、ぽろぽろと涙をこぼしている。おどおどしているのはいつものことだけど、泣いているのを見たのは初めてだった。
愛する人の裏切りや死に立ち会ってきた彼女に、「もうすぐ死んでしまう」というだけの私が、言えることなど何一つない。説得力のかけらもない。ただ。
「鈴子」
呼びかけても、鈴子は泣くのをやめなかった。
私に、「今の」私にしておけること。
「どうしても苦しくなったら」
骨だけの腕で目の前に突っ伏していた鈴子の頭を強く抱き締めた。もうこの腕でギターを弾くこともないから、この腕が折れてしまっても構わない。
「私のとこにおいで」
鈴子は真っ赤になった目をこすりながら尋ねた。
「……どこに?」
変わらないよ。あの滝で、私は歌ってる。
そう言おうとしたけれど、とても眠くなった。
アーの話 アト
ニコ。ニコニコ。ニッコリ。こんな顔するんだ。鈴子先輩はびっくりするくらいきらきら笑った。やっぱりどこか頼りなげ、少しおどおど。彼女が吟味して言葉を選んだ様子は伝わってきた、だけど、それでも鈴子先輩はわたしに満面の笑顔を向けたんだ。これから死ぬわたしに、自分は「死なない」という笑顔を向けたんだ。
「ふざけてるんですか? わたしが言ってる意味わかりませんでした?」
わかってるだろうけど。ふざけてないんだろうけど。そういうヒトなんだけど。だって、わたしなら、先輩に似てるわたしなら、こんなときふざけない。
少し斜め上を見上げる。ほうっと白いため息一つ。悟ったような顔をする。彼女が上を向くのは人と目を合わせないためなんだって、昔詩春先輩に聞いたことがある。目も合わせられないようなことを彼女は今から言うつもりなんだ。わたしは、彼女に何か言われるんだ。
「高郷さん」
鈴子先輩は言った。呟くように言った。なぜか、わたしに呼び掛けたのではない気がした。
「あなただって、わかってるはずだよ」
今度は間違いなくわたしを指した「あなた」。
ギリリと心臓がきしむ。鈴子先輩は余裕のない話し方をするヒトだ。それだけに、必死なコトバが重いんだ。一個一個が重いんだ。
「お姉さんが亡くなったからって、死のうと思わないよね? なぁんにも意味がないんなら、死ぬ意味だってなくなるじゃない」
ん。え。あ。わかったようでわからない。そんなような気もするし、やりこめられた気もする。ともかくしっくりこない。こなかった。
「そんなこと言われたって、わたしは、」
「死ねばいいと思うよ。あたしは止めないよ。あなたが死ぬことにもきっと意味がある」
! !! !? 鈴子先輩は精一杯、そんな顔をしていた。精一杯でわたしに訴えていた。ただ、精一杯で、笑ってもいた。そして、
「あたしは、全部意味があると思う。今日、そう思うしかなくなったんだ。高郷さんのお姉さんと友達だったことも、それで、あなとと知り合えたことも」
不思議なくらいにつながる。わたしの中の点と点がつながる。なんだかよくわからない気持ちが理解できる。
「じゃあ……わたしが、死ななかったら?」
訊いたら、もう終わる。段落に区切りがつくように。わたしの決意は消える。
「それも意味がある」
息をつく。鈴子先輩と同じ、白い息を吐く。初めて寒さに気付く。
「今日、たまたま先輩が来たこともそうなんですね」
「たまたま? ……じゃないのかも、ね。意味があるんだから……」
鈴子先輩は少しさびしい目をした。自分に言い聞かせるようなつぶやき。
そう言えば、わたしは、どうしてこんな寂しいところからの身投げを選ぼうとしたんだろう。セリと初めてここに来たとき、それは、絶対怖いとふるえたのに。ありえない、とふるえたのに。どうして、とふるえて泣いたのに。
「鈴子先輩」
「ん?」
「わたし、ギター始めようと思います」
話すようなことなんだろうか。知らない、わからない。
「そう」
言葉少なだったけど、微笑んでいた。呆れてるんじゃないとわかった。嬉しかった。
「ギター一本で歌手になるのがセリの夢だったから、わたしが叶えるんだ」
「違うよ」
笑みを浮かべたまま、先輩は首を振った。
「それはあなたの夢。お姉さんの夢はとっくに叶ってる」
鈴子先輩は滝を振りかえった。そっか。そうだ。そうじゃなきゃ、せっかくセリが見つけた意味を否定しちゃう。
「わたしたちがここに来たことの意味だってあるんですよね。たとえば、セリに呼ばれた。……のかな」
冗談ぽく言ったつもりだったけど。冗談にするつもりだったんだけど。冗談にならなかったらしい。
顔を上げた鈴子先輩は急に悲しい、悲壮な目をした。
そう、か。セリに呼ばれてここに来たんだとしたら、
「あたしが死ぬことにも意味があると思った。導かれてここに来たんだと思った」
突然口を開く鈴子先輩。返す言葉なんて見つからなかった。
「高郷さん」
鈴子先輩が、おどおどしていなかった。壊れそうで、凛とした、表情。
「本当はね、意味なんてなくて、偶然であって欲しいんだ」
そう、だ。鈴子先輩も死ぬ場所を探してたはず。それなのに一番呼んで欲しかったであろう人に、呼ばれなかった。ということは、一番呼んで欲しかったであろうその人が、あの日好きだったのはやっぱり――
「あたしがここに来たことの意味」
鈴子先輩はフェンスに向かって歩き出した。
「あなたはまだ死んじゃいけない、って意味だよ」
わたしは首を振った。セリが呼んだんだとしたら、セリがわたしと鈴子先輩を呼んだんだとしたら。
わたしが答えてあげないといけない。先輩が本当に欲しい答えを。
「鈴子先輩という人に意味がある。そういう意味ですよ」
鈴子先輩は、私を生かす意味を持っていたんだから。
鈴子先輩は少し笑って、滝を覗き込んだ。彼女の眼から溢れた一滴が滝の中に飲まれていった。
目を閉じ、手を合わせる。滝の底で眠る姉に二人で黙とうした。