とりあえず、ひよかは今の部屋が気に入っていた。
 中央線の沿線は治安が悪い。嘘だったのか本当だったのかわからない。不動産屋にとって、高いとこと契約させることが利益になるのかはわからないが、なぜか薦められたのは「治安“は”良い」という新宿線沿いの極めて安いアパート。
 築年数は気になるものの、改装されたばかりということもあり、内装は綺麗。すぐ近くにはだいたいのものが買える大型のスーパーもある。だから、断る理由なんてなかった。
 だから、ひよかは気にもしなかった。気にもならなかった。

 学校に行くとき以外はろくに外出もしない。その学校さえ、ときどき行かないことがある。
 ひよかはもっぱら部屋にいた。実家を出るとき、せっかく買ってもらったけど、自分が思いの外テレビに興味がないことに気付いた。それだけじゃない。読書やネットサーフィン、自炊にゲーム、散歩すらも。ひよかの関心はどこにも向かない。これは一人で暮らしてみるまでわからなかったことだった。
 かといって、退屈ではない。無意味、無感動に流れていく時間の流れの中、ただ身を任せて目を閉じる。それはそれで、心地よい。時折聴こえる電車の音、犬の鳴き声、自転車のベル。
 まどろみ、夢か現実かわからない状態で、うとうとする。
 そんなとき、決まって黒島がやってきた。
 黒島はいつもお風呂場からやってくる。ごくごく自然に、爛れた黒い皮膚を引きずりながら、ゆっくり近づいてくる。苦しそう、恨めしそうというより、「よっこいしょ」とでも聞こえてきそう。
 それが黒島という名前なのかどうか、実のところひよかにはわからない。ただ、自然と頭に黒島と浮かんだし、黒く焼け爛れた姿にはその名前が似合っていると思った。
 初めて二人が出会したとき、驚いたのは黒島のほうだった。ひよかに気付いたそれは、目があったと思われる穴をしょぼしょぼさせ、少し後ずさりした。しかし、しばらくして思い直したように部屋に踏み込んできた。
 ひよかは、ぼんやりと恐怖を感じたものの、それよりは不動産屋の「治安“は”良い」を思い出して、腹を立てていた。怒りが表情に出ていたのか、ちらりとひよかのほうを振り返った黒島はおずおずと寝ているひよかの横を通りすぎる。
 なぜだか、物凄く申し訳ない気持ちになる。勝手に人のうちに踏み込んでしまったかのような。それで、「あなたは悪くないんです」と必死で黒島に向けて念じた。声は出せなかった。

 黒島がやることはいつも同じ。
 壁に耳を当て、隣の部屋の様子を伺う。30分くらいすると、諦めたようにお風呂場に帰っていく。小さくひよかに頭を下げて。
 初めてのときだけ感じた恐怖心は、いつしか無くなっていた。むしろ、黒島が来ないと心配になるくらい。何せひよかに害はなかったし、むしろこちらが邪魔をしているように思えたから。自分がいることで、黒島がやっている何かが出来なくなっているんじゃないかと。
 黒島がやっている何か?
 気になった。いったい、あれが何をしているのか。
 大好きな自分の部屋に暮らす、もうひとりの住人。助けてあげたいと思った。

 だから、壁に耳を当てたのだった。