(この人はこんな無防備に眠ったりするんだ)
誰も知らない秘密を知れたのかもしれないと思うと嬉しい。
というより、誰も知らないでいてほしい。
エレンの横になっているベッドの縁に上半身を預け、組まれた腕に頬を乗せてリヴァイが眠っていた。
いつもの恐ろしい表情からは想像も出来ない子供のような寝顔をしていて、小柄な体型を含めると本当に子供にしか見えない。こんなこと本人の前では言えないが、可愛いとエレンは頬を緩める。
眉間にいつも出来ているシワがないだけで変わるものである。
整った寝息が眠りの深さを表している。余程疲れていたのだろうか、リヴァイが起きる気配は全くなかった。
リヴァイがここで眠っているという状況を起きてすぐに見て、理解しろと言われても何を理解すれば良いのかエレンは分からない。というより、分かるかも知れないが混乱している。
更にもう一つ理解出来ないことがあった。
エレンの左手の指先、何か温もりがあった。柔らかな優しい暖かさにエレンは気づく。体温だった。子供のような温もり。
今この場で子供という単語に結びつくものーーーリヴァイしかいないのだが、仮にもしこの指先に触れているのがリヴァイ(の多分指)だとしたら、何故自分の手に兵長が手を置いているのだろうか…とエレンの頭の中は更に渦を巻いていく。
(全然状況が、分からない…)
しかしこのまま混乱してても仕方がないので、エレンは目を閉じて意識を回復させる。
ベッドの上にいるのだから、眠っていたのだろう。殺伐とした部屋の雰囲気からして、ここはエレンが自室として与えられた地下室だろう。
身体を支配している倦怠感、そして手足にはめられているーーー重い鉄枷と鎖。拘束、されている。懐かしい気分という微妙な心持ちになるエレンだった。
右手を動かすとジャラリという鈍い鎖の音。
ーーー急に頭と下腹が冷えるのを感じた。
寒気を紛らわせるように、温もりを求めて指先に触れる感触を握ってしまう。
呼吸が乱れそうだった。
(暴走して、しまった…?)
実験の最中だった。
巨人化の実験。
ハンジ分隊長に、頼まれて。
リヴァイ兵長の監視の下。
何度か巨人になった。
巨人になった後の時の記憶は毎回曖昧だ。
でも、成功したかどうかは周りの空気で分かる。
(駄目だったんだ…拘束されてる、失敗したんだ…)
最後に一回だけ、とハンジさんに頼まれた記憶は残っている。断り切れなくて、でもまだ行けると自分を過信したい気持ちもあった。
確かな記憶はそれが、最後だ。
誰かを傷付けた?ミカサに襲い掛かった時みたいに、自分の生み出した巨人を支配出来なかったんだ。
誰かを殺した?暴走して、ただの巨人に成り果てたんだ。
この手でぐちゃぐちゃに、引き裂いてしまったのか?
誰か、教えてくれ。
「っ、はっ…」
息を、吐かないと。
息を、吸わないと。
落ち着け、大丈夫だ。拘束されてはいるけれど、なにもなかった、そうだきっと…誰も、殺してなんかーーー
「誰も、誰も…っ」
気持ち悪い。キモチワルイ。
自分が酷く、異物に思えた。
「エレン」
不意に口元を覆われた。
「落ち着いて、深呼吸しろ」
鼻と口、頬にかけて何かが触れている。手、だ。
声ーーー兵長。
兵長。
目線を兵長に向ける。いつもの冷たい眼差しの兵長に見つめられていた。
「リヴァ…イ、兵長」
「大丈夫だ。お前が思ってる程状況は最悪じゃない。良いから呼吸に集中しろ。深く吸って、長く吐き出せ」
冷たい視線なのに、何故か身体が暖かくなったように感じる。
指示通りに呼吸を合わせていく。
深呼吸をするように、兵長の手の平の中で呼吸すると、しばらくして息苦しさが解消された。
眩暈もなくなり、やっと冷静になれた。
「あの、兵長」
「なんだ?」
リヴァイはエレンの呼吸が落ち着いたのを確認後、口元から右手を離した。その手をそのままエレンの額に乗せ、熱を測る。
多少微熱があるようだが、問題はなさそうである。過呼吸も軽いものだったようで、エレンの朧げな眼光も徐々に強さを取り戻している。
「こんなこと言ったら殴られるかもしれないんですけど」
「じゃあその覚悟で言え」
「…兵長って可愛いですよね」
「開口一言目がそれか、馬鹿野郎」
病み上がりの人間を殴るわけにもいかず、とりあえずリヴァイは額に当てていた手でエレンの髪をクシャクシャと掻き乱した。
「…殴らないんですね」
「俺はこう見えて優しいからな」
「殴ってほしかった」
口元から緩く放たれた呟きをもちろんリヴァイは聞き逃したりはしない。
乱れた髪を直そうとしてエレンは気づく。左手がまだリヴァイの左手を掴んだままであることに。
どうしようか、と思っているとその手をリヴァイが握り返してきた。
瞬間、クッ、と軽く爪を立てられる。エレンが顔をしかめた。
「っ…」
「痛いか、エレン」
リヴァイに見つめられ、エレンは目線を反らす。
「痛い、です」
「痛いのは嫌か?」
「…嫌いです」
「それなら、ふざけた事は二度と言うな」
地雷を踏んだのは分かっていた。リヴァイが自分に対して紛れも無い優しさを見せてくれたのは、偶然ではない。意図して接してくれたのだ。そう理解していて、責められるのは至極当然のことであった。
困らせたいわけじゃない、エレンは顔を覆い隠したくなる。リヴァイに言いたいことが山ほどあった。でも、どれも言えそうになかった。
馬鹿正直に真っ向から言い放つのが自分だと思っていた。けれどそれが嘘で塗り固められた虚像だと気づいた。
言葉にしてしまわなければ、恐怖にも勝てず、力すら与えられない。
そして取り残されるのが嫌で、自分は強いのだと言い張っていたのだ。
だから、弱い嘘の存在と気づいたから、利用しようとしている。
(ーーーーーこの世界、を…)
「兵長、謝らないといけないことがあります」
「なんだ?」
「兵長を困らせるような発言をして、すみませんでした」
「それはどの発言だ?さっきの可愛いがどうとかか?」
「兵長が好きです」
ってやつです、と微笑しながらエレンは続けた。
そこでリヴァイもふと思い出した。誤解を解くチャンスかもしれない、と。
「エレン、勘違いしてるかもしれないが」
「勘違い?」
エレンが首を傾げる。
「俺は別に、酔ってたわけじゃねぇからな」
「え?」
「なんだ…その、忘れてるわけでもない。覚えてる、酒は飲んでたが、意識はしっかりしてたんだ」
苦し紛れといった感じでリヴァイは軽く頭をかいた。
「あの、兵長」
「お前に対してあれから何もしなかったのは…お前からも何もなかったからであってな」
「…兵長」
「確かに未だにどうすりゃ良いか分からねぇから困ってるといえば困ってるが…」
「兵長」
エレンの行動は無意識に近かった。衝動に駆られて、意識の赴くまま、今も繋がっているリヴァイの手を自身の方向に引き寄せ、抱きしめた。
身長の割に堅い、確かに男の身体であるのに、女性を優しく包み込むように背中に腕を回す。
脇に当たる冷たい鎖の感触で、リヴァイは状況を理解した。
「兵長…可愛いです…」
「……またそれか」
耳元で囁かれるエレンの声に息遣いが乗り、リヴァイはくすぐったそうに身じろぐ。
「俺、兵長に何もしなかったのは…自分の気持ちだけ先走って、兵長に好きかもしれないって流れで思われたくなかったんです」
片口に乗せられたエレンの横顔をリヴァイは横目でチラリと流し見た。肩に埋められていて顔色は窺えないが、耳がほんのり赤く染まっているように感じる。
「兵長にちゃんと好きって思われたくて。俺の勢いに負けて、錯覚されたくなくて…」
リヴァイを抱きしめるエレンの腕に力が篭る。
「だから、すみません。俺、もっと大胆になって良かったんですね」
「…?」
エレンどういう意味だ、と質問しようと口を開いたリヴァイの身体がエレンから離れた。いや、離された。
「…、」
リヴァイが反射的に口を閉ざす。その唇を隠すようにエレンが自身の唇を重ね合わせた。
舌で唇を割ることもなく、ただ軽く触れる、子供のようなキス。
ほんの数秒だけリヴァイは目を閉じて、久しく感じていなかった柔らかく温かい、人間味溢れる愛情表現で身体を満たした。
(…やっぱりこいつ、人間なんだな)
この場にそぐわない感想を思いながらも、何故か泣きたくなるような切なく悲しい、締め付けられる想いを、リヴァイは覚えた。
薄く目を開き、目の前の少年を見据える。
閉じられた瞼に隠された黄金の瞳は、意志を燈して燃えているのだろうか。それとも今だけは炎を消し、静かに、穏やかに、安らいでいるのだろうか。
(今だけは…)
幸福だと思えていれば良い。
戦地で多くを失った男は、あやすように少年の背中に腕を回した。