何故か急にマクワ熱が高まった。
「おはようございます」
細い指が髪を撫ぜた。少し冷たい指先が頬に触れる。返事をすることに少し時間がかかった。朝。僕の部屋。
「お邪魔してますよ」
そうだ、昨夜彼女を招いたのは僕だ。
「…すみません、まだ夢見気分で」
「ふふ、ひどいわぁ」
戯ける彼女は、僕が横になっているベッドに腰掛けている。僕から顔を背けて泣き真似をする彼女の腰を掴んで引き寄せた。
「夢にまで見ていたので」
少し冷たい、しかし温もりもある、心地よい温度だ。ずっと望んでいた、その温もりを噛み締めるために頬を摺り寄せる。すると彼女は笑って、上半身だけで僕に覆い被さった。窓から溢れる陽の光が、彼女に遮られる。
「まだ夢ですか?」
「…違いますね」
すぐそばで目が合った彼女は、微笑んで、そして僕の額に唇を落とす。
「………やはり夢では?」
不服に口を尖らせた。そんな僕を揶揄うように笑う彼女が僕から離れる。期待した自分が恥ずかしい。子供を嗜めるように、彼女は僕の手を掴んで、起きるよう促した。
「勝手に冷蔵庫触りましたよ」
そう言って彼女が振る舞う朝食がテーブルに並べられている。
「ありがとうございます」
他人に振る舞われる朝食というのも、久しい。それを彼女が振る舞ってくれたのかと思うと、胸がじんわりあたたかくなる。彩りがあって、栄養も考えられていて、そしてちゃんと美味しい。ロトムに写真を撮ってもらおうかと思ったが、SNSにあげたくなるのでそれはやめた。今はまだ、目に焼き付けるだけにしよう。
朝食を目と口でゆっくり味わっている僕に対して、彼女はパタパタと手を休めない。何をしているのかと思えば、自分の使っていた物を洗ってなんなら水切りも程々にもう拭いている。
「私、この後もう出なきゃいけないので」
「えっ」
まだ今日は始まったばかりなのに?と、頭上に疑問符が浮かぶ。自分がいた証拠を消すように、使っていた物を全て元の場所に戻している。
「えぇ、急遽仕事が入ってしまって」
昨日と同じ服を纏う彼女は、流石に一度お家に帰らないと、と笑う。帰らないと、の後は、勘付かれちゃうかもしれないから、と続くのだろう。何に、パパラッチに。お風呂も勝手に借りちゃいました、と謝る彼女は、もうベランダに向かう。
「あ、の」
僕の横を通り過ぎてベランダへ向かう彼女の手を、咄嗟に掴んでしまう。僕が腰掛けていた椅子が、大袈裟に大きな音を立てた。戸惑いと焦りがそこに見えた。動きを止めて僕を見る彼女。あの、と、また口を動かして、えっと、と何とか言葉を繋げた。
「アーマー、ガア、…呼びますよ」
少しでも彼女との時間を稼ごうとしたが、彼女は面白いことを言うのね、とでも言うように笑う。
「そんなの、尚更バレちゃうわ」
うちの子である程度のところまで行くから大丈夫ですよ、とベランダにボールを向けて、ドラパルトを出す。彼の、姿を消す技を使うつもりらしい。そういえば、昨夜もその技で僕の部屋に訪れた。
「それじゃぁ」
するりと、僕の手の中からすり抜ける彼女の手を、ただ眺めて、僕はそれ以上何も言えなかった。
「…うわぁ…」
キバナさんが瓶から口を離して、発した言葉がそれだ。むしろ言葉でもない。漏れ出た声だ。それが余計に僕の無様さを際立たせる。言うんじゃなかった、いや、言わなきゃいけない。協力してくれたのは、他ならぬキバナさんだ。
「めちゃくちゃ気ィ使われてんじゃねーか」
証拠隠滅、パパラッチ対策、男への朝食ケアまで仕上げて颯爽と去っていってしまった。あれから数日、どこからもそういう話は僕に届かない。彼女の対策は徹底されていた。
「…むしろバレた方が良いのでは…」
「焦るなあせるな」
バシンと僕の背中を乱暴に叩くキバナさん。彼は痛がる僕を他所に、笑ってまた瓶に口つけた。
この日はキバナさんと飲んでいた。顔をささない個室で、気兼ねなく話をする。話題は僕のこと。先日のこと。キバナさんにはよく協力してもらっていたので、彼女との話を聞いてもらっていた。
ロトムが僕を呼ぶ。何かと思ってみれば、ネットニュースだ。彼女とのことか、と焦ったけれど、そうではないらしい。彼女のニュースだ。
「お、なんだなんだ、何か発見したのか?」
彼女の研究発表に関することだった。どうやら最近の研究経過を発表しているようだ。
彼女は研究者だ。博士号を持っていて、日々研究に明け暮れているという。多忙な中なんとかもぎ取った一夜だった、あの日は。キバナさんにも協力してもらって、怪しまれないよう何とか彼女の周りから攻めて、近づいて、口説いて口説いて、やっと手に入れたあの夜だった。それが、するりと。
「…僕は愚かですね…」
ふと気付いてしまった、彼女の徹底した対策、僕に対する気遣い、そしてそれに甘えて、自分の保身を考えてしまう僕。
彼女のニュースと聞いて、僕らのことかと焦ってしまった自分がいた。ファンクラブもある自分の、ジムリーダーとしての地位を崩したくないと言う、恥ずかしい保身。それは、するりと抜けられて当然だろう。
「…呆れられましたかね」
はぁ、と重いため息を吐く。あれから一度も連絡を取っていない。連絡をして、返事が来ないとなると辛い。そう思って送れなかった。
「まぁ、このままならなぁ」
隣でキバナさんがぽそりと呟いた。それがズシリと体にのしかかる。そう、呆れられる。こんな男、呆れられるだろう。
「このままなら、だぞ」
僕に気付かせるように強調するキバナさんが、また僕の背中を叩く。反動で背筋が伸びて、そして気付かされた。そう、このままなら、だ。
「ロトム!」
僕のロトムがすぐに反応して、手元に降りてきた。すぐにメッセージを開いて、文章を送る。推敲もする余裕なんてない。ここは、もう立ち止まる暇なんてない。
ロトムがメッセージを送ったと告げた。少し息を止めて、大きく吐き出す。
「おう!よくやった!」
僕が息を吐いたタイミングで、またもキバナさんが背中を叩くものだから、不意打ちだったので咽せてしまった。咳き込む僕に申し訳なさそうに謝る隣のキバナさん。
「で、なんて送ったんだ?」
そうキバナさんに言われて、ふと冷静になった。もう一度ロトムを呼んで、先ほどのメッセージを開いてもらう。
“こんばんはは、研究おつきれさまです。僕は本気です。”
「………」
「………」
僕も、流石のキバナさんも絶句してしまった。誤字、脈絡のない告白。推敲はすべきだった。余計に気分が落ちる。
「………キバナさん」
「…あぁ…、呑め!」
僕の酒瓶を、僕に寄せて置くキバナさん。これはもうどうにも出来ないとふんだのだろう。それはそうだろう。僕だって絶望しかない。何が本気だ。何の説得力もないじゃないか。今頃連絡をしてきて、何が本気なのか。
なんとか彼女のロトムに取り入ってメッセージを消せないだろうか。頭が痛くなってきた。
「メッセージが届いたロト!」
キバナさんと僕は瓶に口つけたまま固まってしまった。メッセージ?僕に?キバナさんに?誰から?…彼女から?
慌ててロトムを掴んだ。ロトムが驚いたが、申し訳ないが今は余裕がない。メッセージ?彼女から?僕に?なんて?
“ダメ。今夜、やり直し”
ガタッと椅子から慌てて立ち上がった。膝に当たってテーブルが揺れたけれど、キバナさんがおさえてくれたので被害はなかった。どした?とキバナさんが僕を見上げるが、僕はそれに返事する余裕はない。
「僕、帰ります!」
「えっ」
「これ、足りなかったらすみません!」
「いや、いいけど説明してくれよ」
「今度!」
慌ててお金を置いて、個室を出る。店員も驚くが、後ろでキバナさんが笑ってエールを送ってくれているのは聞こえた。
慌てて店を出る。なりふり構っている余裕もない。早く、はやく家に帰らなければ。
きっと彼女が、隠れて待ってくれている。